top of page

​教団歴史

日本同盟基督教団沿革

 本教団の歴史は、15名の宣教師が横浜に上陸した1891年11月22日に始まる。彼らを派遣したのはフレデリック・フランソンとその仲間たちが米国シカゴで設立した北米スカンジナビアン・アライアンス・ミッション(SAM)であった。彼らは福音未伝の地、伊豆半島、房総半島、伊豆七島、飛騨地方に伝道し、さらにアイヌ人地域への伝道も試みようとした。当初は教会設立を意図しなかったが、宣教師と牧師、信徒の協力によって生み出された諸教会は、1922年に日本同盟基督協会を組織した。戦時体制下、宗教団体法施行にともない、1940年日本聖化基督教団を設立。1941年には日本基督教団第8部に所属した。その一部が戦後同教団を離脱し、1948年に再来日した宣教師団SAM、改称してThe Evangelical Alliance Mission(TEAM)と共にゼ・エバンゼリカル・アライアンス・ミッション(日本同盟基督教団)を設立した。現在は協力を終了したが、スウェーデン・アライアンス・ミッション、スイス・アライアンス・ミッションとも協力して戦後の伝道と教会形成を進めてきた。

 教団の意思決定機関は教団総会であり、2013年より宣教区代議員による代議制教団総会へ移行した。教職の養成は、同盟聖書学院(1950年開校)を一つの前身校とする東京基督教大学(2012年度より大学院神学研究科開設)他で行っている。

 本教団は、「聖書信仰、宣教協力、合議制」を三本柱として、聖霊の力により、キリストの宣教命令に応えて、神の栄光を現すことを存立の目的としている。宣教協力においては「国内宣教、国外宣教、青少年宣教」を3つの動輪とし取り組んでいる。国内では積極的な開拓伝道と堅実な教会形成のため2006年から宣教区制を導入し、2018年現在、全国に16宣教区255教会・伝道所がある。また「日本とアジアと世界」に仕える教団として1975年に最初の宣教師を台湾に派遣して以来、これまでに台湾、インドネシア、カナダ(北米先住民)、タイ、パプアニューギニア、ブラジル、モンゴル、南アフリカ等に宣教師を派遣してきた。青少年伝道は、教団が保有している松原湖、浜名湖のバイブルキャンプなどを用いて青少年の救いと育成に力を注いでいる。

 また、宣教100周年記念大会および105周年記念大会における宣言、「『教会と国家』に関する戦後70年宣言」、「今日の政治状況に対する私たちの声明」により、過去の偶像礼拝と戦争協力の罪を悔い改め、惜しみなく犠牲を払い、世の終わりまでキリストへの信仰を堅持することを表明している。昨今の自然災害の多発に伴い、被災地への支援活動にも積極的に取り組んでいる。2011年に発生した東日本大震災の被災地支援を通じて、2019年には岩手県大船渡市で教会を設立することになった。

564598_454145497962089_1495358953_n.jpg
教団沿革
81mHAzf+B4L._SL1500_.jpg

日本同盟基督教団
​130年史 前書き

日本語と共に英語とハングルの訳を見ることが出来ます。

前書き(日本語)
教団歴史

前書き(日本語)

 

本書は、日本同盟基督教団の一三〇年の歴史を一年ごとの編年史として記している。七名の執筆者は、時代によって多少異なる基準で執筆した。読者には日本同盟基督教団の牧師・信徒を想定しつつ、広い読者を期待して簡潔な記述に努めた。一〇〇周年の教団史発行以降、教会・教師の加入もあり、所属教会も増加し、今後の課題も大きい。教団の歴史から、信徒の献身と伝道の情熱、キリストの教会を建て上げる試みが共有され、さらなる宣教協力に生かされることを願ってやまない。注は最小限にとどめ、資料と参考文献は末尾に掲げた。資料引用と人名以外の漢字は新字に改めた。日本同盟基督協会時代の各個教会の呼称は出典の通り「教会」と「協会」の両方を用いている。スカンヂナビアン・アライアンス・ミッションはSAM、スウェーデン・アライアンス・ミッションはSAMJ(スウェーデン)、スイス・アライアンス・ミッションはSAM(スイス)と略記している。

第一章 宣教師の来日から年会成立まで(一八九一~一九二〇年)

日本同盟基督教団の歴史は、スカンヂナビアン・アライアンス・ミッション(SAM)の十五名の宣教師が横浜に上陸した一八九一年十一月二十二日に始まる。男性六人、女性九人は、伝道のために献身し訓練を受けた信徒たちで、按手を受けていたのは二人だけだった。ミッション創立者のフレデリック・フランソンは、スウェーデンに生まれ、アメリカでドワイト・ムーディーの推挙で伝道者となり、ジョージ・ミュラー、ハドソン・テーラーの影響を受けた世界的伝道者である。切迫する再臨ゆえの急務の伝道を「フェイス・ミッション」で開始、中国に三十五人を派遣、その次が日本だった。日本ではキリスト教の宣教再開から約三十年、欧化政策の時代が過ぎ「国体とキリスト教の衝突」が叫ばれていた。来日後三か月、十九歳のメリー・エングストロムが天然痘で召天、十四人は築地居留地から東京、鎌倉、房総半島、濃尾地震の被災地、飛騨の高山・古川、伊豆・伊豆諸島などに伝道を進めた。房総伝道は苦戦の末、千葉に拠点ができる。アイヌの人々にも伝道を試みたが継続されなかった。スウェーデン語のミッション機関紙『シカゴ・ブラデッド』他の資料をまとめた『スカンヂナビア人宣教師の日本伝道事始』(いのちのことば社)には、迫害や経済的必要、霊的戦いの祈りの日々を見ることができ、東京下町や房総の伝道、宣教医ホイットニーとの関係などがわかる。宣教の目標は救霊であったが、やがて教会が設けられ、一九〇四年に在日本同盟基督協会宣教師社団(小梅町に本部)が設立される。フランソンは三回来日(一八九四、九五、一九〇三年)した。千葉のA・J・ピーターソンは内村鑑三に称賛され、H・リンドストロムはアライアンスに移籍、K・E・アウレルは米国聖書協会の働きに転じて日本宣教に貢献する。後続の宣教師には、べルグストロム(一八九三年来日)、ヨエル・アンダーソン(一九〇〇年来日)、C・E・カールソン(一九一三年来日)がいる。

 

第二章 日本同盟基督協会年会の時代(一九二一~一九四〇年)

SAMによる伝道によって高山、千葉、古川、中野、伊東に教会がおかれ、一九二二年に日本同盟基督協会の年会が設立される。年会議長は杉本光平、書記は眞嶋慶三郎である。日本人教職者と教会の成長もさることながら、SAMの財政難に伴い自立が求められた。当時の信仰の特徴は、千年王国前再臨説、浸礼、きよめ、神癒などで、年会議長は伝道区を巡回して地域教会の事務を管理する権能をもっていた。しかし、実際には各個教会の主体性が尊重されており、教師たちは救世軍、ホーリネス、フリーメソヂスト等のきよめ派の神学校で訓練を受けていた。スカンヂナビア人宣教師にとって飛騨の気候風土は東京近郊より好ましく、その飛騨から多くの後継者が生み出された。教師の不足を信徒伝道者である勧士が補ったことも特筆される。船津(神岡)、熱海、大島元村、新島などに教会が生まれ、一九三六年の年会でリーベンゼラ・ミッションが合同、登戸、菊名、杉並、石川、八王子などの教会が加わった。一九三七年の統計では十七教会、十八講義所、教職十三人、信徒六百九十六人、宣教師六人となっている。

第三章 日本基督教団の時代(一九四一~一九四七年)

一九四一年、日本同盟基督協会は、日本自由メソヂスト教会、日本ナザレン教会、世界宣教団と合同し、日本聖化基督教団として日本基督教団に合同し、その第八部となった。米国の宣教師は帰国し、教団は戦争協力に邁進しつつ伝道を続ける。生越實造は東亜伝道会の派遣で上海に渡り、敗戦まで奉仕した。教団は国民儀礼として神社参拝を受け容れ、礼拝前に皇居遥拝、皇軍将兵戦勝祈祷、君が代斉唱を行ったことが高山教会に残された戦時下の週報からも確認できる。中野、大井、八王子、千葉の各教会は空襲で焼失した。牧師も信徒も徴兵・徴用、疎開で離散するが、中野教会の信徒の疎開地の館山、勝鹿には教会が生まれた。飛騨の一信徒は「顧みて戦争中軍部の命に服し伊勢神宮や天皇(皇居)よう拝等隣保班員にも命じ自分もこれを行えり、基督教徒として恥ずべき事也。我が主是を赦し給ん事を」と記している。神への愛と、隣人への愛を厳しく問われる戦争体験であった。一九四六年五月、旧同盟協会の教職八名と、残留していたリーベンゼラのラングが会合し、十月にはC・E・カールソン、翌年にはテモテ・ピーチが再来日し、新たな宣教師も続々と来日した。

第四章 日本同盟基督教団の形成(一九四八~一九六五年)

ピーチは戦中の教会合同と偶像礼拝を厳しく批判、日本人教職者は日本基督教団残留か離脱かの二者選択を迫られる。その結果、一九四八年十月に日本同盟基督教団が設立され、中野・等々力・大井・八王子・登戸・高山・古川・船津(神岡)教会と新設の教会がこれに加わった。この年の教会数は十七、教師二十二人、信徒千四百九十人である。千葉と伊豆・伊豆諸島の教会(西千葉・伊東・菊名・大島元村・大島波浮・新島・熱海)が日本基督教団に留まったことで、中野と飛騨が戦後の同盟の中核となる。旧同盟協会関係者の交流は現在もマケドニア会として継続されている。一九四九年、すでにスカンヂナビア人の枠を超えて拡大していたSAMは、The Evangelical Alliance Mission(TEAM)と改称した。宣教師は一九四七~五二年の六年間だけでも百八十一人が来日した。日本同盟基督教団はTEAMと共に宗教法人「ゼ・エバンゼリカル・アライアンス・ミッション(日本同盟基督教団)」を設立する。東京・神奈川・埼玉を中心に、千葉・茨城、日本語学校があった軽井沢から長野に教会が生れ、スウェーデン・アライアンス・ミッションは一九五〇年から東海地方で、スイス・アライアンス・ミッションは一九五四年から佐渡(のちに千葉)で伝道を展開した。

第五章 計画伝道による教団拡張の時代(一九六六~一九九〇年)

戦後の日本同盟基督教団において、教会数と信徒数が急速に伸び始めるのは一九六〇年代の半ばである。宣教師による開拓教会が自立し、戦後をリードした松田政一から安藤仲市に教団議長が交替、旧同盟の伝統はTEAM宣教師と戦後世代の日本人教職に引き継がれ、そこで大切にされたのがフランソンスピリットだった。一九六四年に国外宣教部が設けられ、一九六七年に宣教五ヵ年計画と地域教会の宣教協力のためのブロック制が決議される。関東地区(東京・常磐・北関東・神奈川)、東海地区(東海・岐阜・関西)、北陸地区(新潟・長野・北陸)、沖縄地区(沖縄)である。教団事務所は中野から豪徳寺に移転(一九九八年から幡ヶ谷)、一九六九年には新潟の七教会が加入、一九七五年に最初の宣教師を派遣し、一九七七年には教団の国内開拓伝道が高崎で開始され、小倉、東広島、京都、千葉印西、高松と続いた。松原湖・浜名湖のバイブルキャンプと東京キリスト教短期大学が後継者育成に貢献し、一九九〇年には東京基督教大学が開設された。一九七六年からの理事長は岡村又男、若狭正一、齋藤篤美。三次までの五ヵ年計画と十ヵ年計画が一九九一年まで継続され、教会数は五十六から百六十四に、現住陪餐会員は二千二百八十二人から六千七百八十九人に増加した。

第六章 宣教協力と教団形成の時代(一九九一~二〇二一年)

その後、宣教協力の推進と共に、教団の歴史的責任の認識と将来に向けての機構改革がなされる。一九九三年に「明日の教団を考える会」(在職二十年以上の教職者研修会)が開催され、教団の三本柱「聖書信仰、宣教協力、合議制」が強調されるようになる。一九九六年の宣教一〇五周年記念大会「横浜宣言」をふまえ、二〇〇七年には教憲前文において「過去の戦争協力と偶像礼拝の罪を悔い改め」と表明される。二〇〇六年から宣教区制を導入し、二〇一三年に教憲教規・信仰告白を改訂、宣教区代議員による代議制教団総会に移行した。「日本とアジアと世界」に仕える教団として、これまでに四十組の宣教師を派遣してきた。開拓伝道は札幌、福岡、仙台、愛媛、盛岡、宮崎、山形、熊本、鹿児島、三重・徳島(宣教区開拓)で行われている。福岡開拓から全県設置を掲げ、残すは佐賀、和歌山、島根、秋田となっている。韓国人教師の加入は一九九〇年以来五十二名を数える。東日本大震災の被災地支援から、二〇一九年には大船渡市にグレイスハウス教会が設立された。この間の理事長は岡村又男、吉持章、赤江弘之、下川友也、中谷美津雄、安藤能成、廣瀨薫、朝岡勝である。現在十六宣教区二百六十一教会・伝道所となった。二〇二一年九月二十三日に宣教一三〇周年記念大会を開催し、記念宣言を行った。

 

 

Forward

 

 This book is a collected history from the 130-year history of the Japan Alliance Christ Church, presented by year as recorded in church annals and records.  The seven authors, each writing in their own period, wrote according to a standard that changed to varying degrees through the times.  While we expect this history will likely be most interesting and relevant to leaders and pastors of the Japan Alliance Christ Church, we hope that these annals can be used for God among a wider audience as well, so the explanations have been kept as simple as possible.  Since the publishing of the Kyodan history at the 100-year anniversary of the Japan Alliance Christ Church, many pastors and churches continue to be added, so there is still much work to be done.  From the history of the Church annals, we can see the dedication of the disciples and passion for evangelism, and how the Church has been built up and challenged.  We hope that this testimony can be used to further inspire efforts and cooperation in ministry.

 Notations have been kept to a minimum, and material and reference lists are posted after the appendices.  All kanji used will be written in “Shinji/New Character” form, exempting proper names and direct quotations from reference material.  Church names and locations from the period of the Japan Alliance Christ Church will be listed as recorded in that day, using both forms of kanji for Church(「教会」と「協会」), but in this English translation, [-Alliance] will be attached for distinction when using 「協会」.  The Scandinavian Alliance Mission will be abbreviated as SAM, the Sweden Alliance Mission as SAMJ(Sweden), and the Swiss Alliance Mission as SAM(Swiss). 

 

Chapter 1 From the Arrival of the Missionaries in Japan to the Establishment of the Annual Conference (1891-1920)

 

  The history of the Japan Alliance Christ Church began when the first 15 missionaries from the Scandinavian Alliance Mission (SAM) arrived in Yokohama on November 22nd, 1891.  There were 6 men and 9 women in the first group of missionaries.  These believers had devoted themselves to the work of evangelization and received training, but only 2 of the missionaries had been ordained.  Fredrik Franson, the man who had established this missionary work, had been born in Sweden.  In America, he had become an overseas missionary at the recommendation of Dwight Moody, and through influence from John Meuller and Hudson Taylor, aimed for world missions.  Facing the urgency of the call to evangelize in the limited time before Christ’s second coming, he started working to send 35 missionaries to China through “Faith Missions”, and afterword worked to send missionaries to Japan.  Over the next 30 years, when Japan was reopened to foreign missionaries, there was a period during the Westernization in Japan that was referred to as “the clash between National policy and Christianity”.  Within 3 months of the arrival of the missionaries in Japan, 19-year-old Mary Engstrom had died from smallpox, and the remaining 14 missionaries had spread out to evangelize in Tokyo, Kanagawa, the Boso peninsula, to the victims of the Mino Earthquake, Takayama and Furukawa in Hida, Izu and nearby islands, as well as other places.  After a fierce battle to evangelize in Boso, a foundation was established in Chiba.  An outreach program to the Ainu was initiated but couldn’t be continued.  “Chicago Blooded”, mission documents written in Swedish, and other documents published under “The Initial Evangelism work by Scandinavian Missionaries” (Word of Life Press), allow us to see the persecution and financial needs, the spiritual battles and prayers that the missionaries faced in their daily lives.  It also gives insight into the missionary work in residential Tokyo and the Boso peninsula, and through records of interaction with the missionaries’ physician Dr. Whitney.  The missionaries’ goal was spiritual salvation, and they were eventually able to establish churches, and in 1904, the Japan Alliance Christ Church[-Alliance] Missionaries’ Association (with a headquarters in Komecho) was established.  Franson visited Japan 3 times (1894, 1895, 1903).  In Chiba, A.J. Peterson praised Uchimura Kanzo, H. Lindstrom joined the Alliance, and K.E. Aurell, who had been working for the American Bible Church, dedicated himself to working as an evangelist in Japan.  Following missionaries in the field include Bergstrom (arrived 1893), Joel Anderson (arrived 1900) and C.E. Carlson (arrived 1913).

  

  

Chapter 2 The Japan Alliance Christ Church[-Alliance] (1921 – 1940)

 

Through the evangelistic efforts of SAM, local churches were established in Takayama, Chiba, Furukawa, Nakano, and Ito, and the Japan Alliance Christ Church[-Alliance] annual conference was established in 1922.  Kohei Sugimoto was the Chairman, and the Secretary was Keizaburo Majima.  While working to raise up Japanese staff and teachers, the church aimed for independence from SAM, which was facing various financial difficulties. At that time, the particular focus on faith was on pre-milleniel eschatology, immersion baptism, holiness and miraculous healing.  The chairman of the annual conference visited the churches in the various evangelical districts and dealt with church management concerns.  Throughout this process, the individuality of each church was respected, and the church teachers came from the Salvation Army, Holiness, Free Methodist denominations, and had received training from other Holiness related seminaries.  The climate and culture in Hida was preferable compared to Tokyo regions for Scandinavian Missionaries, and many successors came from Hida.  It is also recorded that believers helped to support mission work in areas where there were insufficient missionaries for the work.  Churches were born in Funatsu(Kamioka), Atami, Oshimamotomura, Niijima and other places.  In 1936 at the annual conference, the mission joined with the Liebenzeller Mission, so that churches were added in Noburito, Kikuna, Suginami, Ishikawa and Hachioji.  In 1937, there were 17 churches, 18 gathering halls, 13 pastors, 696 disciples, and 6 missionaries.

 

Chapter 3 The United Church of Christ in Japan period (1941 – 1947)

 

 In 1941, the Japan Alliance Christ Church was joined together with the Japan Free Methodist Church, the Japan Nazarene Church and the World Missions denominations.  These were merged with the United Church of Christ in Japan as a part of the Japan Holiness Church group, and became part of the 8th district.  Missionaries from America left Japan, and the church continued evangelistic efforts in conjunction with support for the war efforts.  Jitsuzo Ogose was sent to Shanghai by the Toa Evangelical group, where he continued to serve until Japan’s defeat in the war.  The church as a whole accepted shrine worship as a part of National Rituals, and included a time of worship of Japan at the beginning of the church worship service, as can be seen from the Takayama Church bulletins remaining from wartime.  This worship included facing toward the Emperor’s palace, praying for victory for the Japanese military, and singing “Kimi ga yo” to worship the emperor.  This history is documented in the preamble of our Church constitution, where we include [We repent of our past sins of participation in the war and in idol worship].  The church buildings in Nakano, Ooi, Hachioji and Chiba were burned in air raids.  Pastors and disciples were drafted for service, and the church members were scattered, but the church members from Nakano Church established churches in Tateyama and Katsushika.  One believer in Hida wrote “When I reflect on that time, I see that we obeyed what the military and authorities ordered, and joined in worshiping at the Ise shrine, and in worshiping the emperor.  Moreover, we ordered other believers and our communities to do the same.  This fact is a great shame to me as a Christian.  Lord, forgive me for these things.”.  Life during the war was a difficult time that forced believers to directly face the question of what love for God and love for neighbors meant.  In May 1946, 8 pastors of the old Japan Alliance Christ Church[- Alliance] and the missionary Lange from the Liebenzeller Mission met together again.  In October, C.E. Carlson returned to Japan, and Timothy Peach arrived the next year.  Additionally, other new missionaries continued to enter Japan.

 

Chapter 4 Forming the Japan Alliance Christ Church (1948-1965)

 

 Peach was very critical of the church allowing church worship to be perverted by idolatry during wartime, and the Japanese church pastors and leaders were pressed to choose to either remain in the United Church of Christ in Japan or to leave it.  As a result, in October of 1947, the Japan Alliance Christ Church was established, and the Nakano, Todoroki, Ooi, Hachioji, Noburito, Takayama, Furukawa, Funatsu (Kamioka) churches, as well as other newly established churches entered the Japan Alliance Christ Church.  That year, there were 17 church congregations, 22 pastors, and 1,490 believers in the Kyodan.  Churches in Chiba, Izu and the Izu islands (West Chiba, Ito, Kikuna, Oshimamotomura, Oshima Habu, Niijima, Atami) remained in the United Church of Christ in Japan, so Hida and Nakano became the central nucleus of the Japan Alliance Christ Church in the post-war period.  Even now, relations with member churches of the old Japan Alliance Christ Church[-Alliance] continue through the special Macedonia Gathering.  In 1949, SAM, which had already expanded and grown beyond its initial Scandinavian roots, renamed itself The Evangelical Alliance Mission (TEAM).  In the 6-year period between 1947 and 1952, 181 TEAM members entered Japan.  The Japan Alliance Christ Church partnered with TEAM to establish the religious organization [The Evangelical Alliance Mission (Japan Alliance Christ Church)].  Churches were centered primarily in Tokyo, Kanagawa and Saitama, with more being founded in Chiba・Ibaraki, and through Nagano, where there was a Japanese language school in Karuizawa.  The Sweden Alliance Mission began work evangelizing in the Tokai region in 1950, and the Swiss Alliance Mission worked in Sado (and afterwards in Chiba) from 1954. 

 

Chapter 5  Building the Church through Organized Evangelism (1966-1990)

 

 For the post-war Japan Alliance Christ Church, there was a sudden increase in the number of registered believers and churches beginning in the last half of 1960.  Churches planted by missionaries became independent, and leadership passed from Masaichi Matsuda, who had taken the lead after the war, to the new chairperson, Nakaichi Ando, and the leadership of old Japan Alliance Christ Churches established by TEAM missionaries passed to a postwar generation of Japanese leaders.  Throughout this process, the Franson Spirit was regarded as very important.  In 1964, the Overseas Mission committee was established.  In 1967, a 5-year plan for evangelism efforts was decided upon, along with a geographic division into regional blocs to aid cooperation in evangelistic outreach.  The Kanto bloc (Tokyo, Joban, Northern Kanto, Kanagawa), the Tokai bloc (Tokai, Gifu, Kansai), Hokuriku bloc (Niigata, Nagano, Hokuriku), and Okinawa blocs were designated as evangelism regional blocs.  The Kyodan headquarters moved from Nakano to Gotokuji (from 1998 it moved to Hatagaya).  In 1969, 7 new churches were added in Niigata.  In 1975, the Japan Alliance Christ Church sent out its first missionary, and in 1976, it began planting a church in Takasaki, followed by church planting in Ogura, Higashi Hiroshima, Kyoto, Chiba’s Inzai and Takamatsu.  Matsubarako and Hamanako Bible camps and Tokyo Christian College were supported to help raise a new generation, and in 1990, Tokyo Christian University was established.  From 1976, new chairpersons, Matao Okamura, Shoichi Wakasa, Atsuyoshi Saito continued the leadership, and by 1991, the 5-year plan had been reestablished for the 3rd time, and a 10-year plan had been established.  The number of churches had increased from 56 to 164, and the number of believers had increased from 2,284 to 6,789 registered believers.

 

Chapter 6 A Period of Cooperation in Missions and Establishment of Kyodan Structure (1991-2021) 

 

As evangelical work continues, there is an accompanying need to be aware of the responsibility the Kyodan has in light of its history, and how to reorganize to reach  future goals.  In 1993, the “Thinking about the Kyodan’s Future” seminar (a study group for church leaders that have worked for the denomination for more than 20 years) was held, and the 3 pillars of the Kyodan (Biblical Faith, Missions, Parliamentary Decision-making) have been concretely established.  In 1996, the Kyodan held a conference celebrating the 105th year of establishment, and it focused on the “Yokohama Declaration”.  Building on this, in 2007, the statement [We repent of our past sins of participation in the war and in idol worship] was added to the Church Constitution preamble.  In 2006, the church geographic district blocs were redefined, and in 2013 the Denominational Constitution, as well as the Confession of Faith were revised.  The general meeting structure also changed to meeting by representatives.  As a denomination that can work for “Japan, Asia and the World”, the Japan Alliance Christ Church sent out 40 different missionary groups.  Church Planting work continues in Sapporo, Fukuoka, Sendai, Aichi, Morioka, Miyazaki, Yamagata, Kumamoto, Kagoshima and Mie・Tokushima (a local evangelical bloc church plant).  From the Church planting in Fukuoka, a goal of establishing a church in every prefecture was set, with Saga, Wakayama, Shimane and Akita remaining.  From 1990 Korean missionaries and pastors have also joined the Kyodan, and now number 52 persons.  To support the victims of the Great East Japan Earthquake, Grace House Church was established in 2019 in Ofunato city.  The Chairman of the board of directors during this time included Matao Okamura, Akira Yoshimochi, Hiroyuki Akae, Tomoya Shimokawa, Mitsuo Nakaya, Kaoru Hirose and Masaru Asaoka.  Among the 16 evangelical blocs, there are 261 churches and mission centers.  A special memorial declaration of this history took place at the 130-year anniversary conference on September 23rd, 2021.

머리말

본서는 일본동맹기독교단의 130년의 역사를 일년마다 편년사로 기록하고 있다. 일곱 명의 집필자는 시대에 따라 약간 다른 기준으로 집필했다. 대상 독자층은 일본동맹기독교단의 목사,신도를 상정하면서도 더 넓은 범위의 대상 독자층을 기대하면서 간결하게 기술하려고 노력했다. 100주년의 교단사 발행 이후, 교회·교사의 가입도 있고, 소속 교회도 증가해서 향후의 과제도 크다. 교단의 역사로부터, 신도의 헌신과 전도의 열정, 그리스도의 교회를 세우려는 시도가 공유되어지고, 한층 더 선교 협력에 활용되기를 바라 마지않는다.

주해는 최소한으로 유지하고 자료와 참고 문헌은 말미에 실었다. 자료 인용과 인명 이외의 한자는 상용한자(新字)로 바꿨다. 일본동맹기독협회 시대의 각 개교회의 호칭은 출전대로 '교회(教会)'와 '협회(協会)'를 모두 사용하고 있다. 스칸디나비안 얼라이언스 미션은 ‘SAM’ , 스웨덴 얼라이언스 미션은 ‘SAMJ(스웨덴)’ ,스위스 얼라이언스 미션은 ‘SAM(스위스)’로 약기하고 있다.

제1장 선교사의 일본 입국(在日)부터 연회 성립까지(1891~1920년)

일본동맹기독교단의 역사는 스칸디나비안 얼라이언스 미션(SAM)의 15명의 선교사가 요코하마(横浜)에 상륙한 1891년 11월 22일에 시작된다. 남성 6명, 여성 9명은 전도를 위해 헌신하고 훈련받은 신도들로 그 중 안수를 받고 있던 사람은 2명뿐이었다. 미션 창립자인 프레드릭 프랜슨(Fredrik Franson)은 스웨덴에서 태어나 미국에서 드와이트 무디의 추천으로 전도자가 되었고, 조지 뮬러,허드슨 테일러의 영향을 받은 세계적 전도자이다.

절박한 재림신앙과 전도 급선무의 '페이스 미션(Faith Mission)'으로 시작, 중국에 35명을 파견, 그 다음이 일본이었다. 일본에서는 기독교의 선교 재개로부터 약 30년, 유럽 정책의 시대가 지나고 ‘국가체제와 기독교의 충돌’이 일어났다. 일본 입국 (在日) 3개월 후19세의 메리 엔그스트롬이 천연두로 소천,14명은 쓰키지(築地) 거류지에서 도쿄(東京),가마쿠라(鎌倉),보소반도(房総半島), 노오(濃尾) 지진의 재해지,히다(飛騨)의 다카야마(高山)・후루카와(古川), 이즈(伊豆)・이즈제도(伊豆諸島) 등으로 전도를 진행했다. 보소(房総) 전도는 고전 끝에 지바(千葉)의 거점이 된다.

아이누 사람들에게도 전도를 시도했지만 계속되지 않았다. 스웨덴어의 미션 기관지 『시카고 블라데드』 다른 자료를 정리한 『스칸디나비아인 선교사의 일본 전도 시작』(이노치노 고토바샤)에는, 박해나 경제적 필요, 영적 싸움의 기도의 나날을 볼 수 있으며, 도쿄시타마치(東京下町)나 보소(房総)의 전도, 의료선교사 휘트니와의 관계 등을 알 수 있다. 선교의 목표는 영혼 구원이었지만  얼마 안 있어 교회가 세워지고 1904년에 재일본동맹기독협회 선교사 사단(코메초「(小梅町)」에 본부)이 설립된다. 프랜슨은 3회 일본 입국(1894,1895,1903년)했다.

지바(千葉)의 A.J. 피터슨은 우치무라 간조에게 칭찬받고H.린드스트롬은 얼라이언스로 이적, 칼오렐(Karl Emanuel Aurell)은 미국성서협회의 활동으로 옮겨서 일본선교에 공헌한다. 후속 선교사에는 벨그스트롬(1893년 일본입국),요엘 앤더슨(1900년 일본입국),C.E. 칼슨(1913년 일본입국)이 있다.

제2장 일본동맹기독협회 연회의 시대(1921~1940년)

SAM 전도에 의해 다카야마(高山),지바(千葉),후루카와(古川),나카노(中野),이토(伊東)에 교회가 세워져 1922년에 일본 동맹 기독 협회의 연회가 설립된다. 연회 의장은 스기모토 미쓰히라(杉本光平),서기는 마지마 케이자부로(眞嶋慶三郎)이다. 일본인 교직자와 교회의 성장도 물론이거니와 SAM의 재정난에 따라 자립이 요구되었다. 당시의 신앙의 특징은 천년왕국 전 천년설, 침례,성결,신유 등으로 연회장은 전도구를 순회하여 지역교회 사무를 관리할 권한을 가지고 있었다. 그러나 실제로는 각 개교회의 주체성이 존중되어 교사들은 구세군,성결교회,자유감리회 등의 성결파 신학교에서 훈련을 받고 있었다.

스칸디나비아인 선교사에게 히다(飛騨)의 기후풍토는 도쿄 근교보다 마음에 들었고, 그 히다(飛騨)로부터 많은 후계자가 배출되어졌다. 교사의 부족을 신도 전도자인 권사가 보충한 것도 특필된다. 후나츠(船津)「카미오카(神岡)」,아타미(熱海),오시마 모토무라(大島元村),니지마(新島) 등에 교회가 설립되고, 1936년의 연회에서 리벤젤 선교회가 통합, 노보리토(登戸),기쿠나(菊名),스기나미(杉並),이시카와(石川), 하치오지(八王子) 등의 교회가 더해졌다. 1937년의 통계에서는 17교회,18강의소(講義所),교직자 13명,신도 696명,선교사 6명으로 되어 있다.

제3장 일본기독교단의 시대(1941~1947년)

1941년 일본동맹기독협회는 일본자유감리교회, 일본 나사렛교회, 세계선교단과 통합하여 일본성화기독교단으로 일본기독교단에 통합하여 그 제8부가 되었다. 미국 선교사는 귀국하고 교단은 전쟁 협력에 매진하면서 전도를 계속한다. 오고세지츠조(生越實造)는 동아시아전도회의 파견으로 상하이에 건너 패전까지 봉사했다. 교단은 국민의례로서 신사 참배를 받아들여, 예배 전에 황거 요배(皇居遥拝), 황군 장병전승(皇軍将兵戦勝) 기도, 기미가요(君が代) 제창을 한 것이 다가야마교회에 남겨진 전시하의 주보에서도 확인할 수 있다.

나카노(中野),오이(大井),하치오지(八王子),지바(千葉)의 각 교회는 공습으로 소실되었다. 목사도 신도도 징병,징용,소개(疎開)로 이산(離散) 하지만, 나카노 교회 신도의 소개지인 다테야마(館山), 카츠시카(勝鹿)에는 교회가 설립되었다. 히다(飛騨)의 한 신도는 ‘뒤돌아보면 전쟁 중 군부의 명령에 복종하고,이세 신궁이나 천황(황궁) 숭배 등 다른 사람들에게 명령하고 자신에게도 이것을 행한 기독교인으로서 부끄러운 것임. 우리 주님 꼭 용서해 주시길’ 이라고 적고 있다. 하나님에 대한 사랑과 이웃에 대한 사랑을 엄격히 묻게 되는 전쟁 체험이었다. 1946년 5월, 구(旧) 동맹 협회의 교직 8명과, 잔류하고 있던 리벤젤의 랑그가 회합해, 10월에는 C·E·칼슨, 다음해에는 디모데 피치가 다시 일본입국,새로운 선교사도 잇달아 일본에 입국했다.

제4장 일본동맹기독교단의 형성(1948~1965년)

피치는 전쟁 중의 교회 통합과 우상 예배를 엄격히 비판, 일본인 교직자는 일본 기독교단 잔류 또는 이탈의 양자 선택을 해야만했다. 그 결과, 1948년 10월에 일본 동맹 기독교단이 설립되어, 나카노(中野),도도로키(等々力),오이(大井),하치오지(八王子),노보리토(登戸),다카야마(高山),후루카와(古川),후나츠(船津)「(카미오카(神岡))」교회와 신설의 교회가 이에 합류했다. 이 해의 교회수는 17개, 교사 22명, 신도 1490명이다. 지바(千葉)와 이즈(伊豆),이즈 제도(伊豆諸島)의 교회「(니시지바(西千葉),이토(伊東),기쿠나(菊名),오시마모토무라(大島元村),오시마 파부(大島波浮),니지마(新島),아타미(熱海)」가 일본기독교단에 머물러서 나카노(中野)와 히다(飛騨)가 전쟁 전후의 동맹교단의 핵심이 된다. 구(旧)동맹협회 관계자의 교류는 현재도 마케도니아회로서 계속되고 있다.

1949년 이미 스칸디나비아인의 틀을 넘어 확대하고 있던 SAM은 The Evangelical Alliance Mission(TEAM)으로 개칭했다. 선교사는 1947~52년의 6년간만으로도 181명이 일본에 왔다. 일본동맹기독교단은 TEAM과 함께 종교법인 '에반젤리칼 얼라이언스 미션(일본동맹기독교단)'을 설립한다. 도쿄(東京),가나가와(神奈川),사이타마(埼玉)를 중심으로 지바(千葉),이바라키(茨城), 일본어 학교가 있던 가루이자와(軽井沢)에서 나가노(長野)까지 교회가 설립되어, 스웨덴 얼라이언스미션은 1950 년부터 도카이(東海) 지방에서,스위스·얼라이언스·미션은1954년부터 사도(佐渡)「나중에 지바(千葉)」에서 전도를 전개했다.

제5장 계획전도에의한 교단확장의 시대 (1966~1990년)

전후 일본동맹기독교단에서 교회수와 신도수가 급속히 성장하기 시작하는 것은 1960년대 중반이다. 선교사에 의한 개척 교회가 자립해, 전후(戦後)를 리드한 마츠다 마사이치 (松田政一) 에서 안도나카이치 (安藤仲市) 로 교단의장이 교체, 구 동맹의 전통은 TEAM 선교사와 전후 세대의 일본인 교직에 계승되어,거기서 중요하게 된 것이 프랜슨 스피릿이었다. 1964년에 해외선교부가 설치되어 1967년에 선교 5개년 계획과 지역교회의 선교협력을 위한 블록제가 결의된다.

간토지구(도쿄·죠반·기타간토·가나가와) , 도카이지구(도카이·기후·간사이) , 호쿠리쿠 지구(니가타·나가노·호쿠리쿠) ,오키나와 지구(오키나와)이다. 교단 사무소는 나카노에서 호토쿠지로 이전(1998년부터 하타가야) ,1969년에는 니가타의 7교회가 가입, 1975년에 최초로 교단 선교사를 파견해, 1977 년에는 교단의 국내 개척 전도가 다카사키에서 시작되어 고쿠라, 히가시히로시마, 교토, 지바인자이, 다카마쓰로 이어졌다. 마쓰바라코·하마나코의 바이블 캠프와 도쿄 기독교 단기대학이 후계자 육성에 공헌해, 1990년에는 도쿄 기독교 대학이 설립되었다. 1976년부터의 교단장은 오카무라 마타오, 와카사 마사이치, 사이토 아츠미. 3차까지의 5개년 계획과 10년 계획이 1991년까지 계속되어 교회수는 56에서164로, 교회정기출석교인(現住陪餐会員)은 2,282명에서 6789명으로 증가했다.

제6장 선교협력과 교단형성의 시대(1991~2021년)

그 후 선교 협력의 추진과 함께 교단의 역사적 책임의 인식과 장래를 향한 구조 개혁이 이루어진다. 1993년에 「내일의 교단을 생각하는 회」(재직 20년 이상의 교직자 연수회)가 개최되어, 교단의 3대핵심 「성서 신앙, 선교 협력, 합의제」가 강조가 되어진다. 1996년의 선교 105주년 기념대회 ‘요코하마 선언’을 근거로 2007년에는 교회헌법전문에서 ‘과거의 전쟁 협력과 우상 예배의 죄를 회개’라고 표명되어진다. 2006년부터 선교구제를 도입해 2013년에 교회헌법 신앙고백을 개정하여 선교구 대의원에 의한 대의제교단총회로 이행했다.

'일본과 아시아와 세계'를 섬기는 교단으로서 지금까지 40쌍의 선교사를 파견해 왔다. 개척 전도는 삿포로, 후쿠오카, 센다이, 에히메, 모리오카, 미야자키, 야마가타, 구마모토, 가고시마, 미에 ・도쿠시마(선교구 개척)에서 이루어지고 있다. 후쿠오카 개척으로부터 전현(全県) 설치를 내걸고, 남겨져 있는 미개척현은 사가, 와카야마, 시마네, 아키타이다. 한국인 교사의 가입은 1990년 이후 52명이다. 동일본 대지진의 재해지 지원부터, 2019년에는 오후나도시에 그레이스 하우스 교회가 설립되었다. 이 사이의 이사장은 오카무라 마타오, 요시모토 아키라, 아카에 히로유키, 시모카와 토모야, 나카야 미츠오, 안도 노세, 히로세 가오루, 아사오카 마사루이다. 현재 16선교구 261일교회·전도소가 되었다. 2021년 9월 23일에 선교 130주년 기념대회를 개최하여 기념선언을 했다.

Forward 前書き(英語)Englishi

머리말   前書き(ハングル)Korean

Forward
머리말
bottom of page